長い話になるので割愛しますが、父は医者で開業医をしていましたが、
私は医者になりませんでした。
兄もいましたが、やはり医者にはなりませんでした。
兄は期待されて医者になるものだとばかり思っていましたが、
医者にはならずその煽りで、私も医者にはなりませんでした。
ですから、医者は一代限りで終わりました。
自分は医者の道を選びませんでした。
東日本大震災の時は、自分が医者だったらと心 底思いましたね。
また、自分が医者だったら家族の病を治せたかもと思う事もあります。
病院に行って若い医師にかかる時、こんな自分がいたかもと思うことがあります。
コロナ騒ぎの今、父が医者になった意味をつくづくと噛み締めます。
やっぱり自分は、医者の道を歩むべきだったのかと思うことがあります。
今あるのは自分が選んできた道、後戻りの出来ない人生は、
ジレンマであり矛盾なのです。
家は代々続く医者の家系ではありませんでしたから、家は貧乏なのだと思っていました。
父は病院勤めで、自宅は社宅。開業してからも、借金で病院を立てたのに変わりはなく、
車はなくバイクを買って、看板をあちこちの町に張り付けに行ってました。
看板は父がブリキに自分で書いたものでした。
病院は入院があったので忙しく、
夜の食事は手術が終わって一段落してからの10時過ぎが普通でした。
本当に裕福な思いは、何一つした記憶がありません。
家は貧乏な医者なんだと思っていました。
ですから、兄が医者にならないと知った時、医者になるのは諦めました。
浪人を幾年かすれば、出来の悪い私でも医学部に入れるかもしれない。
でも、それには相当なお金がかかる。
兄でお金がかかってるのに、それは出来ませんでしたね。
それで、ろくに勉強もせずにだらけた生活をしてしまいました。
大学に入り、夏休みや冬休みには家に帰って来ました。
時おり、母方の祖母が泊まりに来て母とよく話をしていました。
そんな中、母が祖母に言いました。 父さんによく言われるんだと。
「お前はいいなあ母親がいて」。
そうです、父方の祖母はいません。 父が7歳の時に亡くなっているのです。
病気の為会わせてもらえず、母のことは知らないも同然でした。
後に仏壇の引き出しを探したら、一枚の写真が出てきました。
父の母親の写真でした。
驚いていましたね。 数十年を経て、初めて見る母親の姿でした。
母の亡くなった病気は、結核でした。
父は、財産も何もいらないから「医者にさせてくれ」と頼んだそうです。
そして父は、金沢医科大学医学部(現在の金沢大学)に入学しました。
理由は当時、金沢大学には結核の権威が教鞭を振るっていたからだと思います。
父は、敵を討とうと思ったのではないでしょうか。
猛威を振るう結核を、何としてもやっつけたかった。
人生は酷なもの、父の父親も在学中に結核により亡くなりました。
医者になる前に両親とも、亡くなってしまったのです。
実は、このことは兄は知りません。
兄は数十年前に、父の学んだ大学を見てみたいと言い金沢まで一人旅をしました。
もしかしたら、父が金沢大学に入った理由を知ったのかも知れません。
でも、もう兄もいないので確かめることもできません。
親子の軋轢が人生を狂わし、誤解が誤解を生み無常に時が流れました。
人生は二度ありません。
私は兄との誤解を、兄が生きているうちに解くことができました。
しかし、どうして医者にならなかったのか、それは言えなかったですね。
誤解がなければ、兄も私も医者になってたことでしょう。
父の夢は、息子が二人医者になって病院を作ることでした。
親の心、子知らず。
つくづく思うことがあります。
医者は奉仕の心がなければ出来ない。
或いは、使命感がなければ出来ない仕事だと。
私ら老獪は、何れこの世を去ってしまいます。
このコロナ過に、思うのは自分の生き方です。
医者が一人病魔に立ち向かっても、救える命は少ないかも知れない。
しかし、それが塊となって病魔に向かうならば、
それは決して無駄にはならないと思います。
遠い遠いはるか昔、秋田県の片田舎で
病魔に立ち向かうために、
一人の若者が医者を目指しました。
私は父のようには生きられない。
しかし、もし同じ立場だったら、同じことをしたと思います