テレビで見てたら、若者の評論家?が出て討論をしていたが。
呆れた。
話している内容が全く分からない。 正しく、立て板に水の様に流れてしまっている。
頭は切れるのだろうけど、国語力はどうかなあ。
昔から、立て板に水の如しと、弁舌は嫌われる。
残念なことに、本人はそれが普通なので気が付くことはまずない。
アナウンサーは、一分間に何文字言うのか厳しく決められているそうな。
そんな番組を昔見ました。 ラジオなどは言葉を加減するらしい。
確かに言葉は人に伝えるために発せられるもので、
伝わらなければ相手に理解されなければ全く意味がありません。
同じもの同士似たもの同士はそれでも良い。
しかし、世論やら違う年齢層に訴えかけるのなら全く違うでしょう。
テレビでは、複数の論者が答弁していましたから、
言葉の速度や量その違いに驚きましたよ。
この若者の立て板に水の話し方は、全て言いたい焦りがそうさせるのですね。
限られた時間に、言いたいことを兎に角言うと言う心理です。
日本語として、残念な次第。「~です私は~}と話しますね。
区切りなく言葉が繋がります。普通は「~です。 私は~」としないといけません。
音楽同様、休符は必然かつ必要なのです。
溜めがあって、そのタイムラグがあって人は相手の言葉を理解します。
立て板に水は、自分の言葉をそれこそ水に流しているのです。
文章もそうですが、行間などのスペースがなくビッチりと書き込んでいる文章は、
見ただけで読む気が失せます。
私も昔はそうでしたが、改めましたよ。
数書けば良いと言うものじゃないですからね。ですから、英文で用紙にギッシリ書き込ま
れてる論文やエッセイなどは辟易です。
紙などが貴重だった時代のレガシーなんですよね。
言いたいことをふるいにかけて、
余分なことは余り言わないようにする思慮遠望が必要なのではないかと思います。
「言わないのではない、考えているのだ」と言う格言を何処かで見たことがあります。
言わなければ何もわかりませんが、
誰に伝えたいのかそれを考えないと空振りになってしまいますね。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
桑原桑原。